無名のぼくの記録

記憶に残らないような存在でも、確かにぼくは今日も幸せに生きている。

ぼくの両親

 

ありきたりな話。

 

ぼくの両親は田舎にいる。

ありきたりな話で、ぼくの両親は夫婦ではないらしい。

でも今でも何故か夫婦として婚姻を結んだままだ。離婚はしていない。

しかし、今でも記憶に少し残っているのは母親から言われた「あなた達が産まれなければとっくの昔に離婚していた」だ。

まるで何処の昼ドラだ。と思った。ぼくには2つ下の妹がいる、それを含めた「あなた達」だ。結局は経済的な問題らしい。

 

井の中の蛙であっても、ぼくはそれなりに勉強は出来た。

けども、ぼくの住んでいる田舎から、ぼくの学びたい分野は国立で考えれば遠すぎた。田舎は、公立よりも私立のほうが劣っている。そしてぼくは貧民も貧民、決して裕福ではなかった。

だけれども、両親からは「入りたい大学があるのならば、入りなさい」と言われていた。

私立は知らないが、公立高校は大体二年生の春に進路表を提出する、ぼくは自分の家が決して裕福ではない事を知っていたので、行きたい学校を先定めして特待生の枠を狙っていた。私立の、入学費が免除、一年目の授業費が半額になるプランだ。

それを決めたのが高校一年の冬くらいで、両親に行きたい学校を告げた時に父親は「母親に任せる」と一点張りで、ぼくはそれから母親に行きたい学校をずっと話しており、その為に勉強をしつつ、田舎が車がなければ何も出来ぬという事で空いた時間にバイトをして普通免許を取る為に頑張っていた。

 

そんな生活を二年続けて、平穏が崩れたのはまさかの高校三年の冬である。

唐突に父親が「私立は無理だ」と言い出した。

しかし、個人的に学びたい事だった。今で問題になっている奨学金に手を出してもいいかなとおもったが、それに対して父親は「子の学ぶ金は親が払うべきだ」といって聞かなかった。しかし、国立ではぼくの田舎の周りでは学べる所がなかった。

母親から田舎から出来るだけ近い場所で、と指示されており行きたい大学を決めていたが、それは父親の意に反していたらしい。

「どうして道外を選ばなかった? 甘えなのか?」と言われたのは覚えている。

もはや最終的な進路表を出さねばいけぬ時だった。結局はその話し合いで揉めてしまい、なあなあにされて進路表の提出日を過ぎてしまい、ぼくは途方にくれた。

担任の先生からも怒られ、事情を話すと疑われたのかしらないが特別に三者面談までされた。

その時母親に来てもらったが、その言葉を今でも忘れない。

「先生だって、好きで先生になったわけではないでしょう? 人間そうじゃないんですよね。この子もそういうものです。女の子だから、適当にいきていてもどうにかなりますよ」

ぼくの記憶が曖昧になっている中、この言葉も明確に覚えている。

その時、ぼくは母親がおかしいのだなと思った。

ちなみに担任の先生は、本当かどうか知らないが昔は相当の悪で、その果てに色々あって教師という道を選んだ人だ。まだ若く、公務員が花型と今で言われる時代のもっと前の人だ。

ぼくは、その三者面談で凄く情けなくなった。その先生は嫌いではなかった。少なくとも、中学でいじめ問題を頑なになかったと言い張り続けた担任よりも好きだった。

それは、また別の話しだが。

 

母親の虚言癖に近い、丸め込もうとしていたのかよくわからない三者面談の後に担任に謝られた記憶はある。

謝りたかったのはぼくだ。

 

そんな調子で、結局なあなあだった。最後の最後になって、両親と話をして、母親から土下座された記憶がある。

それはぼくの大学進学費でためていた400万を母親が溶かした事だ。貢いでいた形跡はない。ぼくの家族、父親と父方の祖母が豪遊好きだったのもあったのかもしれない。その金の使用した内訳は知らない。

それでも、それが無くなったので無理だ。といわれたのが高校三年の1月だ。

 

ぼくの進路はそれからなあなあで、担任からも言われる事はなく。

ぼくの事を皆腫れ物のように扱っていた。ぼくは、どうすればいいかわからなかった。

学びたいのはあったが、奨学金は保護者の判子がいる。そんな状況であっても父はそれを承諾しなかった。

父は頑なに触れる事なく、母はひたすらにフリーターでいいじゃないとうわ言のように言っていた。

その際に「あなた達が産まれなければとっくの昔に離婚していた」と母は繰り返していた。

どれだけ自分が苦労していたか、どれだけ自分が辛かったかと母はその時にぼくと妹に語っていたが、そこは覚えていない。さしたる興味もなかった事だ。

ただ、その時にぼくはそれまで護っていた家族というものは、さしたる大事なものではなくつまらない陳腐なものだなと理解出来た。

 

血の繋がりというのはなんなのだろう。ぼくには理解出来ない。

ぼくは結局は高校を卒業して、田舎を出て東京にやってきた。当時、趣味の知り合いに事情をはなし、携帯を肩代わり契約してもらい、独り立ちできた。

それがなければ今こうして居なかったかもしれない。

正直家を出た時に、無理なら死んだほうがマシとも思っていた。ぼくの命はあのときは羽毛の毛よりも軽かった。

 

余談だが、高校を卒業するときに「今年の在校生の卒業先」のような表がプリントされたものを配られた。就職・進学・家事手伝いのように区分されており、過去三年のデータが記載されたものだったが、過去三年0だった区分で「不明」が、ぼくの卒業する年は1だった。

ぼくはその時に少し笑った。

 

実家を出て九年、ぼくはこうして生きている。

今賃貸で借りている場所が、両親が健在ならば保証人としてどちらかになってほしいと言われて母親を頼っているが、九年たって彼女から聞いた言葉は「帰る場所ならあるからね」だ。

 

ぼくの帰る場所なんて無いんだよ。

そう思う。

出てきて二年目、母方の祖母から聞いた言葉は事実を歪曲されたものだった。

田舎は親戚付き合いが命よりも重い。

父親はぼくの消えた理由を「不良になった」という体で通しているらしい。

母方の祖母から「一発殴られるだけで戻れるんだ。仲を持ってやるから戻りなさい」と一年目に言われて顔が真顔になったのも覚えている。

三年前にワケあって祖母に電話した時にも同じ事を言われた。

 

母親はぼくが出てから何かあったらしくうつ病になった。というよりも虚言癖といい、逃げ癖といい前兆があったのだが。

一年目でぼくに、妹の進学費用が無いと申し出られて、ぼくが八十万払ったのを覚えているのだろうか。

妹のSNS日記にその年に「岩手に旅行にいった^^」という記事を見て、ぼくが何をおもったのか彼女は知っているのだろうか。

八十万が手切れ金なら構わないのだが、結局妹も短大にいって今は立派なニートらしい。

そう考えると歪んでいるかもしれないが、父親の苦労を考えて気分が良い。

 

 

ぼくは、ぼくの生きてきた場所をありきたりな理由で無くした。

ぼくはこうして生きているだけでも不思議なのかもしれない。

九年たって、ぼくの精神も、頭もおかしくなりかけているのか昔の事を思い出せなくなっている、それでも、ぼくはその側面の短いどこかを思い出すだけで嫌な気持ちになる。

ぼくの両親は、きっと両親ではなかった。

大人になってわかった事は、きっと親は子供の前で人間という部分を見せてはいけないんだろうな。という事だ。

 

ぼくは、きっと幸せだ。

家を出ていなければ、きっと違う幸せがあったかもしれないが、自由はなかったんだろうな。と思う。