無名のぼくの記録

記憶に残らないような存在でも、確かにぼくは今日も幸せに生きている。

ぼくの価値観

 

 

ぼくはあまり、お金は好きではない。

お金で買えないものはあるのだとぼくは知っている。

金が全てで、それこそ金などなくともうんぬんというのは学生かニートだけだと言うアイドル? の話をこないだ見て思ったが、ぼくは別にそればかりではないと思う。

 

じゃあ金があって何をするのか、という話になるのだが、明確な目標がある人で金を稼いでいる人はむしろそんな事を言わないと思うのだ。

此処で言う明確な目標の中に、社長なり経営者は入らないけどもね。

それでも、そこまで切羽詰まったような環境で口酸っぱく「金が全てだ」と周囲に当たり散らすのならばそれこそ向いていないのではないかとも思う。

ぼくの知っている大きな会社のお偉いさん達は、むしろそれを一番と知っているものの声を大きく言う事はない。

 

結局情と金は天秤にかかっているのだと思う、その人に対して情も想いもなければ価値は金でしかないのだ。

生活基準最低ラインの金銭感覚や、子供や家族がいる人はそこの価値観の基準がまた違ってくるのだけれども。

お金が全てではないとぼくは思いたい。

 

それはぼくが生活基準が最低ラインで、金の使いみちなどわからずにのうのうとためているせいもあるかもしれない。

それでも、ぼくは自分が幸せだと思っているので、この生活も悪くないと思うのだ。

何かがなければ楽しめない生活ではなく、何もないからこそどうにか楽しもうという精神は人生を楽しむのにはあってもよい箇所だと思っている。

来るのが当たり前の明日を、ありがたく過ごせる。

だからこそぼくは、幸せだと自分を肯定出来る。

 

ぼくは、お金は好きではない。

できれば、友達も出来るならばそんなしがらみを感じ無い相手が良い。

酒好きにアルハラはいない

 

ぼくの揺るがない信条が、実はひとつだけあって、酒は楽しむものだというのを大事にしている。

 

酒が好きな人は幾つかの分類にわかれるのだが、ぼくの中で本当に酒が好きな人はアルハラにならないと思っている。

というのも、悪意を持って相手の事を考えずに物事を行う人はいないと思うのだ。

それこそ社会に出れるような障害の無い人間こそ、まさかにそれが当てはまるべきだと思うのだが、なかなかそうもいかずにぼくの店の中にも酷いアルハラ光景を目の当たりにする事は多々とある。

 

酒は飲めるからすごい、ではなく、酒はひとつのツールにしか過ぎない。

たばこと一緒だ。喫煙者同士が喫煙ルームで仲を深めるように、酒飲みは酒を飲める席で仲良くなれるというものであって、決してアルコールがダメな人にそれを強要してはいけないと思う。

アルコールがダメならば食事をともにすれば良いだけの話だからね。

 

本当にお酒が好きならば、自分の好きなものならば他人の苦労にならないようにさせたいと思うのだが……

あまり今の人は、そこまで気がまわらない人もいるらしい。

 

ぼくは色々な世界を見る、それは飲み屋の中の設定だったり仮想なものかもしれないが、ぼくからすれば恵まれた環境で楽しくしている者もいれば、苦汁を飲むために生きているのかと先の未来を案じてしまう人も居て、

飲み屋にかかせないツールの酒を交えて、ぼくは彼らと対話してその断片を知る。

毎日口にするものだからか、それともぼくが酒が好きだからかはわからないが、ぼくはお酒の場だけは皆陽気であってほしい。

酒を飲む事が苦痛だと思ってしまう場は、ぼくはとても苦手だ。

ぼくの両親

 

ありきたりな話。

 

ぼくの両親は田舎にいる。

ありきたりな話で、ぼくの両親は夫婦ではないらしい。

でも今でも何故か夫婦として婚姻を結んだままだ。離婚はしていない。

しかし、今でも記憶に少し残っているのは母親から言われた「あなた達が産まれなければとっくの昔に離婚していた」だ。

まるで何処の昼ドラだ。と思った。ぼくには2つ下の妹がいる、それを含めた「あなた達」だ。結局は経済的な問題らしい。

 

井の中の蛙であっても、ぼくはそれなりに勉強は出来た。

けども、ぼくの住んでいる田舎から、ぼくの学びたい分野は国立で考えれば遠すぎた。田舎は、公立よりも私立のほうが劣っている。そしてぼくは貧民も貧民、決して裕福ではなかった。

だけれども、両親からは「入りたい大学があるのならば、入りなさい」と言われていた。

私立は知らないが、公立高校は大体二年生の春に進路表を提出する、ぼくは自分の家が決して裕福ではない事を知っていたので、行きたい学校を先定めして特待生の枠を狙っていた。私立の、入学費が免除、一年目の授業費が半額になるプランだ。

それを決めたのが高校一年の冬くらいで、両親に行きたい学校を告げた時に父親は「母親に任せる」と一点張りで、ぼくはそれから母親に行きたい学校をずっと話しており、その為に勉強をしつつ、田舎が車がなければ何も出来ぬという事で空いた時間にバイトをして普通免許を取る為に頑張っていた。

 

そんな生活を二年続けて、平穏が崩れたのはまさかの高校三年の冬である。

唐突に父親が「私立は無理だ」と言い出した。

しかし、個人的に学びたい事だった。今で問題になっている奨学金に手を出してもいいかなとおもったが、それに対して父親は「子の学ぶ金は親が払うべきだ」といって聞かなかった。しかし、国立ではぼくの田舎の周りでは学べる所がなかった。

母親から田舎から出来るだけ近い場所で、と指示されており行きたい大学を決めていたが、それは父親の意に反していたらしい。

「どうして道外を選ばなかった? 甘えなのか?」と言われたのは覚えている。

もはや最終的な進路表を出さねばいけぬ時だった。結局はその話し合いで揉めてしまい、なあなあにされて進路表の提出日を過ぎてしまい、ぼくは途方にくれた。

担任の先生からも怒られ、事情を話すと疑われたのかしらないが特別に三者面談までされた。

その時母親に来てもらったが、その言葉を今でも忘れない。

「先生だって、好きで先生になったわけではないでしょう? 人間そうじゃないんですよね。この子もそういうものです。女の子だから、適当にいきていてもどうにかなりますよ」

ぼくの記憶が曖昧になっている中、この言葉も明確に覚えている。

その時、ぼくは母親がおかしいのだなと思った。

ちなみに担任の先生は、本当かどうか知らないが昔は相当の悪で、その果てに色々あって教師という道を選んだ人だ。まだ若く、公務員が花型と今で言われる時代のもっと前の人だ。

ぼくは、その三者面談で凄く情けなくなった。その先生は嫌いではなかった。少なくとも、中学でいじめ問題を頑なになかったと言い張り続けた担任よりも好きだった。

それは、また別の話しだが。

 

母親の虚言癖に近い、丸め込もうとしていたのかよくわからない三者面談の後に担任に謝られた記憶はある。

謝りたかったのはぼくだ。

 

そんな調子で、結局なあなあだった。最後の最後になって、両親と話をして、母親から土下座された記憶がある。

それはぼくの大学進学費でためていた400万を母親が溶かした事だ。貢いでいた形跡はない。ぼくの家族、父親と父方の祖母が豪遊好きだったのもあったのかもしれない。その金の使用した内訳は知らない。

それでも、それが無くなったので無理だ。といわれたのが高校三年の1月だ。

 

ぼくの進路はそれからなあなあで、担任からも言われる事はなく。

ぼくの事を皆腫れ物のように扱っていた。ぼくは、どうすればいいかわからなかった。

学びたいのはあったが、奨学金は保護者の判子がいる。そんな状況であっても父はそれを承諾しなかった。

父は頑なに触れる事なく、母はひたすらにフリーターでいいじゃないとうわ言のように言っていた。

その際に「あなた達が産まれなければとっくの昔に離婚していた」と母は繰り返していた。

どれだけ自分が苦労していたか、どれだけ自分が辛かったかと母はその時にぼくと妹に語っていたが、そこは覚えていない。さしたる興味もなかった事だ。

ただ、その時にぼくはそれまで護っていた家族というものは、さしたる大事なものではなくつまらない陳腐なものだなと理解出来た。

 

血の繋がりというのはなんなのだろう。ぼくには理解出来ない。

ぼくは結局は高校を卒業して、田舎を出て東京にやってきた。当時、趣味の知り合いに事情をはなし、携帯を肩代わり契約してもらい、独り立ちできた。

それがなければ今こうして居なかったかもしれない。

正直家を出た時に、無理なら死んだほうがマシとも思っていた。ぼくの命はあのときは羽毛の毛よりも軽かった。

 

余談だが、高校を卒業するときに「今年の在校生の卒業先」のような表がプリントされたものを配られた。就職・進学・家事手伝いのように区分されており、過去三年のデータが記載されたものだったが、過去三年0だった区分で「不明」が、ぼくの卒業する年は1だった。

ぼくはその時に少し笑った。

 

実家を出て九年、ぼくはこうして生きている。

今賃貸で借りている場所が、両親が健在ならば保証人としてどちらかになってほしいと言われて母親を頼っているが、九年たって彼女から聞いた言葉は「帰る場所ならあるからね」だ。

 

ぼくの帰る場所なんて無いんだよ。

そう思う。

出てきて二年目、母方の祖母から聞いた言葉は事実を歪曲されたものだった。

田舎は親戚付き合いが命よりも重い。

父親はぼくの消えた理由を「不良になった」という体で通しているらしい。

母方の祖母から「一発殴られるだけで戻れるんだ。仲を持ってやるから戻りなさい」と一年目に言われて顔が真顔になったのも覚えている。

三年前にワケあって祖母に電話した時にも同じ事を言われた。

 

母親はぼくが出てから何かあったらしくうつ病になった。というよりも虚言癖といい、逃げ癖といい前兆があったのだが。

一年目でぼくに、妹の進学費用が無いと申し出られて、ぼくが八十万払ったのを覚えているのだろうか。

妹のSNS日記にその年に「岩手に旅行にいった^^」という記事を見て、ぼくが何をおもったのか彼女は知っているのだろうか。

八十万が手切れ金なら構わないのだが、結局妹も短大にいって今は立派なニートらしい。

そう考えると歪んでいるかもしれないが、父親の苦労を考えて気分が良い。

 

 

ぼくは、ぼくの生きてきた場所をありきたりな理由で無くした。

ぼくはこうして生きているだけでも不思議なのかもしれない。

九年たって、ぼくの精神も、頭もおかしくなりかけているのか昔の事を思い出せなくなっている、それでも、ぼくはその側面の短いどこかを思い出すだけで嫌な気持ちになる。

ぼくの両親は、きっと両親ではなかった。

大人になってわかった事は、きっと親は子供の前で人間という部分を見せてはいけないんだろうな。という事だ。

 

ぼくは、きっと幸せだ。

家を出ていなければ、きっと違う幸せがあったかもしれないが、自由はなかったんだろうな。と思う。

生きづらい

ぼくは世間で言う、いわゆるパブというもので働いている。
パブというのはキャバクラみたいなもので、マンツーマン接客ではない感じだ。
そんな商売をもう7年ほど続けている。
一度は夜の世界に疲れて飲食で働いたが、長続きしなかった。

それは決して、夜の稼ぎが良くて昼に戻れなかったという訳ではない。
そもそもの話、ぼくは自分と他人の距離感がうまく掴めない、他人がとても怖い、話す事は出来るがぼくの話す事柄は八割が嘘だ。
だからこそ、話すことがメインである夜の仕事は向いていないと思った。というより、現在進行形で思っている。

四年前に一度きつすぎて昼に働き始めた。
すると、思いの外に障害があった。
距離感も掴めず、毎日同じ人に会うのが辛くなった。従業員とだ。
その勤め先は小さな飲食店で、十名くらいのバイトと店長、副店長、オーナーと調理師数名がいたのだが、彼らと毎日顔を合わせるのが辛かった。
別に彼らに何かをされたわけではない、ただぼくの被害妄想と自意識過剰が膨らみ過ぎて抱えきれなくなったのだ。

人との距離感が掴めないというのは、とても恐ろしい。
どのラインまでさらけ出せばいいのかわからない。
言われたこと、聞かれたこと、語られたことに対してどれ程自分が思ったことを話せば良いかわからない。
だからこそ、ぼくの話は、9割か8割くらい嘘である。
お茶を濁したり、相手にとって好感触な答えを返す。そこに、大体のぼくの意思は無い。
それの積み重ねがつらいのだ。仕事を終えて、ふとんに入り目を閉じると過ごした一日が自動で瞼の裏側にて回想が始まり、ひとつひとつの自分の起こしたリアクションや回答、行動に対してネガティブに後悔してしまう。
それは誰に対しても何に対しても同じだが、職場の人間というのは毎日ほぼ顔を合わせるのだ。

僕は大体毎日、後悔する。
ぼくが唯一後悔しない日は、だれともあわずに一日引きこもっている日だ。
そんなぼくが、同じ人と毎日顔を会わせ、互いに干渉しあうという行為にストレスを感じない訳がない。

そもそも水商売の従業員のほうが淡白だ。
他人に深入りするキャストはいない、ボーイもそうだ。
客は毎日変わる、しっている客や指名客は面倒だがそれでも体の良いあしらい文句や嘘で固めれば変に深入りされることはない。
同じ嘘をついて、後悔するならば毎日顔を合わせるの人間が淡白な環境が良い。

学も資格もないぼくが、そうして枠に収まってしまったのが水商売なのだ。
人と付き合えないぼくが、人と接してナンボの商売にいるのは痴がましい話だ。腰掛けにも満たない働きぶりだ。
きっと、同業者でまじめに働いている方々からすれば嘲笑されるだろう。
だが、ぼくのように毎日特定の人と顔をあわせて話をして生活をしなければならないというのが辛い人にはぴったりなのだ。

ぼくも今年で27になる、ぼくの今の夢は、貯金をして転職することだ。
工場でずっと黙って仕事をしていたい。誰とも話すことなく一日を終えて、のんびりとしたい。
もう歳も歳で、難しい夢だというのはわかっている。しかし、小さな夢だ。

本当は、ずっと眠っていたい。
布団の中で、夢を見ているとき、ぼくは自責の念から逃れられる。

現実は、とても難しい。
だからせめて、夢の中では静かでありたい。

このブログは

このブログは、ぼくのチラシ裏です。

ぼくについて書きます。
ぼくは、一人称が「ぼく」でありますが女です。

今年で27になりますが、ぼくには一人も友達がいません。
都内に在住しています。
家族とは、ほぼ縁を切っています。

ぼくは高卒で、特に資格もありません。車の免許すらありません。
友達も、家族もおらず、生きています。
人は誰かに助けてもらわねば生きて行けぬと、知らない人は言いますが、ぼくは一人です。
けれど、縁を切っていますが訳があって母親とはまだ繋がりがあります。
もし、その知らない人が言う通りに「人は助けて貰わねば生きて行けぬ」が本当ならば、ぼくは確かに母親に生かされています。

しかし人との繋がりは、そんなか細い糸だけ。
それがぼくです。
ぼくは無名です。ぼくの今の現実は全て嘘で成り立っています。

それでもぼくはしあわせです。
そんな無名なぼくの、きっと記憶に残らないようなことを書こうと思います。